木製品旅行記
日本の旅 大阪の桜【1】 交野ヶ原の桜(by さすらいおじさんさん)
枚方八景のひとつ、牧野公園周辺の地域は、平安時代に交野ヶ原と呼ばれた桜の名所だ。交野ヶ原は平安貴族の別荘地で牧野公園の近くには文徳天皇の第1皇子惟喬親王(これたかしんのう、844−897年)の別荘「なぎさの院」があった。
惟喬親王は第1皇子でありながら、母が紀氏の出身であったことから文徳天皇は母が太政大臣藤原良房の娘、女御明子であった第4皇子、惟仁親王(これひとしんのう850−880年、後の清和天皇)を皇太子に指名した。天皇になれなかった失意の惟喬親王は859年に15歳で東近江市(町村合併前は永源寺町君ヶ畑)に出家し隠遁。春には「なぎさの院」を訪れ交野ヶ原で在原業平 (ありわらのなりひら825−880年)らと狩猟や花見をして心を和ませようとしたそうだ。
惟喬親王に仕え、六歌仙でもあった平安時代の代表的歌人、在原業平は惟喬親王の失意の心を「なぎさの院」の桜を見ながら詠んだと言われている。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(古今集)
美しい桜、だが一瞬に散ってしまう桜の花に、心はせかされ穏やかではない。もし、桜がこの世に無ければ「春の心」はもっとのどかだっただろうに。
惟喬親王は花見の宴を催しても心は晴れなかったのだろう。
だが惟喬親王は打ちひしがれているだけでは無かった。隠遁地・永源寺町君ヶ畑では轆轤(ろくろ)を考案発明し、こま、椀、盆、こけしなどの木製品造りを地場産業として定着させたと伝えられている。君ヶ畑は木工職人、「木地師発祥の地」と言われ 惟喬親王は日本木地師の元祖とされ全国で崇拝されているとのこと。失意の生活の中で日本の歴史に残る業績を良く残されたものだ。
一方、皇太子から清和天皇になることができた惟仁親王も幸せでは無かったようだ。外祖父藤原良房が外戚として政治の実権を握ったことに耐えられなかったのか、879年には出家し厳しい断食修行の後に880年には30歳の若さで亡くなっている。
天皇の座を得た惟仁親王も得ることができなかった惟喬親王も藤原氏天下の時代には辛酸をなめさせられたのだろう。
平安時代の公家社会は華やかさよりむしろ陰湿な世界だったのかなあ、などと考えながら交野ヶ原の満開の桜をながめていた。
(写真は阪公園の夕暮れの桜)
タイ王国旅行記(19):12月20日(1)(by 旅人のくまさんさん)
<2005年12月20日(火)>
6時半に起床しました。その時にメモをしたこの日の予定を記しておきます。結果は、大分予定が変わってしまいました。
*8:30分ホテル出発、ブロンボン駅で1日券購入
*スクンビット駅へ、北へ徒歩5分、カムティエン夫人の家見学
*サイアム駅へ、徒歩でサイアムスクエア見学
*ナショナルスタジアム駅へ、徒歩で北へトンプソンの家見学
*昼食後、タクシーで国立博物館へ、国立美術館も見学
等でした。この日も最高の天気に恵まれました。見学の途中、ご高齢の現役スキーヤーの母娘さん達とも出会いました。
<BTSの一日券を使って市内見学>
BTSについては、最初の方で説明しましたから、1日券を使った感想について記しておきます。1日券は100バーツ、約350円です。乗り場は、建物で言えば、3階建くらいの高さになります。線路が交差する場所では、線路が縦に配置されたり、並べて配置されたりしています。
階段だけを使って上り下りを繰り返しますと、からりハードな乗り物です。エレベーターも併設されていますから、これを利用するのも草臥れ防止策になります。上り下りはハードですが、高架ですから、市内見物にはもってこいです。ビルの間を曲がりくねった線路もありますし、見晴らしのいい郊外を走る区間もあります。
線路は単純で、スクンビット線とシーロム線の二つだけです。今回の旅行で、この線の全てに乗車しました。このBTS線と地下鉄線が、いくつかの駅で交差しますから、上手に使い分けると、効率よくバンコク市内の見学が出来ます。
<カムティエン夫人の家>
カムティエン夫人の家は、ホテルを出発してBTSで最初に向かいました。プロンボン駅で乗車して、隣の駅での下車でした。ホテルから歩いても大した距離ではありませんでした。
最初に、カムティエン夫人のことですが、手元のガイドブックや、インターネット情報で検索しても、詳しいことは分かりませんでした。推測ですが、タイ国の伝統文化を大切にされた、裕福な家柄の方だった人でしょう。インターネット情報では、王族に関連する家柄の記述もありましたが、確かなことは分かりません。
ガイドブックでは9時から開館とされていましたので、朝一番にやって来ましたが、開館はまだでした。それでも正門が開いていましたから、高床式の1階の展示物や、屋外の展示物などは見学できました。庭にはテントが用意されて、イベントが準備されているようでした。
タイの中心部に位置していますが、この一角だけは鬱蒼とした木々に守られて、別世界となっています。建物自体が見所となっています。19世紀中頃のタイ北部、ラーンナー形式の高床式の家が、40年ほど前に移築されたもののようです。カムティエン夫人は、実際にこの家に住んでいたとのインターネット情報もありました。
1階部分を一通り見学し、写真を撮った後で、階段の下で靴を脱ぎ、2階に上がりました。そこでは、民族衣装に身を包んだ女性の方が、掃除の最中でした。勝手に上がってきたことを咎める風でもなく、『まだ、清掃中ですから、見学はもう少し後にしてください』と言われたように聞こえました。その、ゆったりした仕草と言葉に、この国の素晴らしさを、実感させられました。
実は、2階の1室はすべて見学した後でのことでしたから、民具や織物などの見学もすることができました。インターネットでも展示物の閲覧ができました。タイ北部の彫刻や織物、木製品などの民芸品が豊富に揃っていました。機織機も展示してあります。
本来は入場料100バーツですが、チケット売り場も開いていませんでしたから、結局は無料での見学となってしまいました。私の他には、1組のカップルの方が、高床式の1階で開館を待ってみえました。
<シーロム線の終点駅へ>
地下鉄とBTSの路線図は最初に紹介しておきましたが、この日はBTSを主体の見学となりました。台北の新交通システムのMRTのように、地下鉄と高架鉄道が一体運用されると、更に乗換えや料金面などでも便利になるはずですが、実現していません。
その理由を推測してみますと、地下鉄が建設された時の経緯に遡るようです。ガイドブックにも載っていましたが、地盤軟弱で建設が困難とされた地下鉄が、技術の進歩で2004年7月に開通の運びとなりました。その建設には相当の資金が必要だったはずです。通称MRTと呼ばれる地下鉄路線は、18駅がありますが、この資金回収のために、別路線として運用されているのではないでしょうか。
話をBTSの方に戻します。こちらはスクンビット線とシーロム線の2つがあります。折角、1日フリーパスを買い求めましたから、全ての路線に乗ってみることにしました。
カムティエン夫人の家からは地下鉄駅の方が、少しだけ便利ですが、スクンビット線のアソーク駅からサイアム駅まで行き、そこでシーロム線に乗換えました。この線路の終点駅がナショナルスタジアム駅です。次の見学予定地のジム・トンプソンの家の最寄り駅になります。
<ジム・トンプソンの家>
先にジム・トンプソンのことから紹介しておきます。ボランティアの日本語ガイドさんからお聞きし、日本語パンフレットにも紹介してあったことです。持参したガイドブックにも簡単に記載してありました。
トンプソンは、1906年にアメリカで生まれました。第二次大戦前は、建築家として働いていました。34歳の時、志願してアメリカ陸軍に入隊し、ヨーロッパで従軍しました。
タイとの縁は、第二次大戦の終了間際に、CIAの前身であるOSSの情報将校として派遣されたことに始まります。退役するまで東南アジアで勤務し、タイに永住することになりました。
トンプソンは、タイシルクに興味を持ち、手織り製品の普及に努めました。デザイン力に優れ、染色家としても天賦の才能に恵まれていました。タイシルクの名を世界に広めた功績者とされています。
そのトンプソンは、1967年3月にマレーシアのキャメロン高原での休暇中、謎の失踪を遂げました。その原因は、今尚、手がかりが掴めていません。
現在の一般公開は、1976年にトンプソンの法定管財人が、タイ王国からトンプソンの名を冠した財団法人の許可を受けてからのものです。その邸宅と美術コレクションが、国立博物館として登録されています。
次に、そのコレクションの概要について紹介しておきます。まず、6軒の家屋そのものが、タイ様式を取り入れたチーク材で出来た価値の高いものです。5軒分の建材は、アユタヤから河を下って運ばれ、伝統的な様式に従って、復元されたものです。また、随所に建築家であるトンプソンのアイデアが生かされています。建築に際して、タイ国の風習に従って、占い師と占星家達が占いを行ったとされます。
収蔵品の方ですが、履物を脱いで、手荷物をロッカーに預けての見学となります。小物の展示品が、当時のままに展示されているなどの理由であると推測しました。
この項目の締めくくりの感想を述べておきます。案内をして頂いたのは、ご主人と一緒にタイに住まわれることになって、30年が過ぎたと紹介された日本語ボランティアの女性の方でした。私と同世代の方です。入場券に記載された時刻に従って案内された、もう一人の見学者は、この後、インドに向かわれると言う30前後の女性の方でした。
1時間程の時間をかけて案内して頂きましたが、ガイドさんとの話が弾んで、あっという間でした。トンプソンは中国との貿易も多かったらしく、その折に入手されたと思われる陶磁器、絵画などのコレクションも数多くありました。その中には、仏像もありました。
しかし、景徳鎮の名品だと言われる器は、言われた年代より、どう見ても新し過ぎるようでした。台北の故宮博物院の展示品との比較などで、そのことをガイドさんに質問しますと、『トンプソンが蒐集した美術品は、一切、鑑定が行われていません。もし、贋作が混じっていても、彼が蒐集したことを尊重して、そのまま展示してあります』との説明でした。ガイドさん自身は、中国や台湾の国宝級の陶磁器類は、眼にしたことが無いとのお話でした。
最初は30分ほどの見学予定でしたが、予定を変更して、ボランティアのガイドさんの説明に沿った1時間コースの見学となりました。BTSでのアクセスが便利ですし、バンコクに泊まられる場合は、是非お薦めしたい見学コースです。
予定コースの見学は、履物を脱いで上がる2階が主でしたが、その後には、1階の展示物を見学しました。小さなロッカーにバッグを預けましたが、取り出す時に一寸したハプニングがありました。紐の部分が隣のロッカーに挟まれてしまっていたからです。 インドに出かけられると言う女性の方も手伝ってくれて、何とか隣のロッカーが開く前に、私の荷物を取り出すことが出来ました。一時は、お隣の方が戻ってくるまでの待ちぼうけを覚悟しました。お互いの旅の無事を祈ってお別れしました。
<デパートのフードセンターで昼食>
ジム・トンプソンの家の構内には、レストランが併設されていました。しかし、ここで食事をするには少し躊躇しました。観光場所ですから、多分メニューが限られると考えたからです。それで、BTS駅へ戻って市街地へ移動することにしました。ナショナルスタジアム駅からは1駅戻るだけのサイアム駅です。
お店を探したのは、デパートビル1階のフードセンターでした。地元料理を含め、各国の料理店が寄り集まって、その一角にはフリーのテーブルもありました。こちらは、テイクアウトした食べ物を持ち込んで食べる場所でした。
一通り回ったお店の中で、焼き魚定食の写真がありましたので、このお店に決めました。タイ国の娘さんが浴衣を着て呼び込みをやっていたお店です。レジで先払いをして、テーブル席に着きました。お店の囲いが無い、オープンタイプのお店が並んでいたお店の一つです。
焼き魚は鮭でしたが、大根おろしも付いていました。野菜の煮物も付いていましたが、ちゃんとした味付けでした。ご飯はタイ米ではなく、日本と同じジャポニカが使ってありました。値段も安く、申し分の無い昼食となりました。
<スアン・パッカード宮殿>
スアン・パッカード宮殿のことを簡単に紹介しておきます。ラーマ五世の孫に当たるチュンポット殿下の所有の宮殿だった建物です。タイの伝統家屋の中に、殿下が蒐集されたスコータイ期の陶磁器、家具類が展示されています。
入場料金は100バーツ(約350円)ですが、専属の日本語ガイドさんが付いてくれた上に、お土産の団扇を貰いました。椰子の葉を編んだ民芸品です。ガイドさんは、学校で日本語の勉強中と自己紹介された明るい女性の方でした。
話が弾む中で、私が名古屋からやって来たことを紹介しますと、『私の大学の日本語の先生は、宇佐美さん(私の記憶は、やや不確か)と言われる名古屋出身の方でしたが、最近、帰国されてしまいました。今は日本人の先生がいません』と残念がっていました。中々流暢な日本語を話されていました。
アルバイトでの日本語ガイドのようでした。最初はガイド役だったものの、見学のお仕舞の方では、私のほうが説明役、日本語の先生に立場が入れ替わってしまいました。
例えば、収蔵品の中で焼成中にくっついてしまった陶磁器がありましたが、『これを失敗作と説明した方がいいのでしょうか?それとも出来損ないと説明すべきでしょうか?』と言った質問等でした。答え方が難しかったのですが、『ほとんど同じ意味ですが、出来損ないは、少しきつい表現ですから、失敗作の方がいいでしょう』と言った具合でした。
話のついでに、『日本ではこういった失敗作の展示は中々見ることが出来ません。登り窯で薪を使って焼いた品は、炎の具合でも出来栄えが違い、陶芸作家は気に入らない作品は、その場で粉々に割っていまいます』などの補足説明もしておきました。『亡くなられた有名な陶芸作家の加藤唐九郎さんが、典型的な方でした。割られずに残った作品の方が少ないくらいでした』と、つい余分なこともお話しました。
この学生さんに中庭で写真を撮って頂いてスアン・パッカード宮殿の見学を終えました。下の写真です。次のガイドをするためにロビーに戻る途中で、何度も振り返って別れの挨拶をしてくれました。
<少し遅すぎた国立博物館とワット・プラケオ見学>
スアン・パッカード宮殿の見学の後は、パタヤイ駅から2駅南のサイアム駅まで戻りました。16時頃になっていました。ガイドブックに載っていた国立博物館の開館」時間の9時から16時を確認しなかったのが失敗でした。到着した時間が16時半過ぎでしたから、残念ながら、入館できませんでした。
その国立博物館へ向かうタクシーのことに触れておきます。初日にガイドさんから教えて頂いた『メーターが無いタクシーは絶対駄目です。緑と黄色の個人タクシーが、観光客とのトラブルが多いようです』と言ったアドバイスに反したことでした。渋滞がひどくなった繁華街でのことでしたから、つい、メーターの無い個人タクシーを拾いました。
乗った後で、行き先のスアン・パッカード宮殿を告げると、分かっていても知らない素振りをされました。『それなら降りますと』日本語でしゃべって、ドアを開けようとしましたら、今度はあわてて、『大丈夫だ』と言った仕草を見せて、値段交渉が始まりました。30代前後の運転手でした。
最初に150バーツを片言の英語で提示されましたので、『100バーツならOK』と返事してスタートしました。しかし、その途中、ずっと値段交渉でした。150バーツから始まって、目的地に到着した時には『混雑していたから、200バーツ』と言った具合でした。そのまま払うのも我慢できませんでしたから、180バーツに、小銭を少し添えてその車を降りました。それでも、まだ半分は納得していないような顔をしていました。1回だけの経験だけなら面白い部分もありましたが、2度と、こんなタクシーには乗りたくないものです。
行き先をワット・プラケオと告げたのは、歩いて5分くらいのところに国立博物館があることを予め確認しておいたからです。目的地を間違えたふりをして遠回りされる可能性も考えました。少し苦労して到着した国立博物館でしたが、残念ながら閉館時間の16時を大きく回っていました。
それでも正門が開門されていましたので、守衛に人に断って、構内の写真を何枚か撮ることができました。写真を撮り終わって、会釈をして門を出ますと、すぐに閉門されました。当然、ワット・プラケオをはじめ、その他の見学地も終了時間を過ぎていました。
折角やってきても、引き返す以外に方法はありません。バスも走っていましたが、行き先を正しく見極めるのが難しく、これは諦めました、何しろ文字が全く読めません。タクシーを拾おうと付近を見回していましたら、日本語が話せる人が近寄ってきて、『今からでも無料で見学できる寺院があるから、案内します』と言って、私が手にした地図に印を付けてくれました。髭を生やした、がっちりした中年の運転手さんでした。
しかし、海外旅行での一番危ないパターンの可能性もありますから、丁寧にお断りして、タクシーとは反対方向のワット・プラケオ方面に歩き始めました。ワット・プラケオ前でタクシーを拾うことが出来ました。
往きと違って、今度はメータータクシーでした。行き先は、サイアム駅を告げました。道路が渋滞していましたから、30分ほど掛かりましたが、メーターでは75バーツでした。チップの5バーツを加えて、駅近くでタクシーを降りました。
運転手さんもBTSの駅近くで降りたいことを理解してくれていましたから、サイアムのBTS駅を指差して教えてくれました。僅かのチップでも、丁寧にお礼を言われましたから、倍の料金を請求された個人タクシーとは大違いでした。国立博物館見学は出来ませんでしたが、タクシーの乗り方では、大いに勉強になりました。
<晩酌はサイアム駅近くで>
晩酌は、ホテルを出発する時から、バンコク中心街のサイアム駅近くに決めていました。タクシーを降りた場所が、ぴったり、デパート1階のフードセンターの前でしたから好都合でした。一通り店を回って店を決めることにしました。
バンコクのお酒は、ビール以外に見当たりませんから日本酒かワインが飲める店を中心に探しました。紹興酒は輸入品で、ウイスキーのボトルと同じような値段でしたから、これは対象外にしました。その結果選んだお店は『FUJI』でした。日本料理のお店で、日本酒が各種置いてあるようでした。
『FUJI』のお店は、会員制のような高級店がこのビルか、別のビルの階上にありましたので、見覚えがありました。こちらのお店は、100席を超える大型店でした。突き出しにキムチが出てきましたから、韓国人のオーナーが経営される日本料理店のようでした。
注文した品は刺身の盛り合わせと寿司でした。飲み物は、最初にビール、そのあとに熱燗を頼みました。キムチの突き出しの時には、少し心配しましたが、ちゃんとした醤油とワサビでした。ただし、お寿司はワサビ抜きで、別の皿にワサビが出されました。
このお店では、話しぶりや、周りの方の気遣いから推し量って、オーナーの娘さんと思しき方が、采配を振るっていました。まだ20代の前半の年齢の方でした。中々気さくな、かわいい方でした。何度も私の注文がちゃんと出されているか、席を覗いては笑顔で会釈を送ってくれました。
注文した品は、メニューの中では高い値段でしたが、会計はそれほど高く感じませんでした。お酒は銚子を、追加で注文しました。刺身、お寿司とも予想以上の味でした。刺身には、私の大好きなしめ鯖が入っていたのが感激でした。
カムティエン夫人の家で
伝統のタイ王朝の品飾る掃き清める板敷の部屋
ジム・トンプソンの家で
日本を離れて長きボランティア話題は弾み巡る広き家
スアン・パッカード宮殿で
案内の若きガイドに補足して何時しか我が聞れる立場
タイ王国旅行記(11):12月19日(1)(by 旅人のくまさんさん)
<2005年12月19日(月)>
アユタヤ遺跡の見学を申し込んでいたのは私一人でしたから、専属のガイドさんと運転手さん付きの贅沢な見学となりました。この日も願っても無い好天に恵まれました。10月頃まで続く雨季が終って、完全に乾季に入っていたようです。
今回の旅行での一番の楽しみが、この世界文化遺産、アユタヤ遺跡の見学でした。ガイドさんは、9時にホテルに出迎えに来てくれる約束になっていました。
<近道を通って早朝の散歩>
7時前に起床しましたから、朝食の後に、アユタヤ見学の時間までは、1時間以上の余裕がありました。それで、近道を通って、クイーンズガーデンの早朝の散歩を楽しみました。近道は、2階のレストランの横を通って、ホテルの裏口に通じるコースです。BTSのスクンビット駅への近道にもなっています。
公園に隣接する扉には、いつもホテルの守衛さんが常駐していますので、声を掛けてから、その門を潜りました。公園では、平日の早い時間でしたが、ジョギングや散歩の人を、結構見かけました。昨日は、日曜日でしたから、遊戯具でお子さんを遊ばせているお母さん方も見えましたが、今朝は、その遊戯具の場所は閑散としていました。
カメラを持参しての散歩でしたから、一通り公園を散歩しながら撮影をしました。花壇では赤いバラの花も咲いていました。公園から眺めたインペリアル・クイーンズパークホテルの姿も中々でした。
<アユタヤ遺跡見学へ>
約束の時間の少し前に、ガイドさんがホテルに迎えに来てくれました。私一人の贅沢な観光になりましたので、約束の時間前でしたが、すぐにホテルを出発しました。市内を通過する時に、ラッシュアワーの影響を出来るだけ少なくするためでもありました。
ラッシュになっていましたが、大きな渋滞にはなりませんでした。感心したのは、どんなに混雑していても、車同士が譲り合う光景があちこちで見られたことです。強引に割込んだり、意地悪をして、割り込みをさせないような運転は見かけませんでした。タイの人の人間性を垣間見たような思いでした。
アユタヤ遺跡見学の前に、少しその説明をしておきます。西暦1350年にシャム(現在のタイ国)、アユタヤ王朝の都として築かれたアユタヤは、チャオプラヤ川中流の沿岸にあります。東西約7km、南北約4km、四方を川に囲まれた島状の街です。水運を利用し、近隣だけでなく中国、ペルシャ、遠くヨーロッパとも交易を広め、最盛期には東南アジア最大の都市へと発展しました。
アユタヤの歴代王は上座仏教を信奉し、都に数多くの寺院や宮殿を建立しました。今日残っているそのほとんどは、都ができて150年の間に建てられたものです。35代にわたって続いたアユタヤ王朝も、1767年、ビルマの軍勢によって滅亡しました。この侵攻により廃虚となった遺跡群は、1991年、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。
四方を川に囲まれたアユタヤの町は、その『島』全体が遺跡で溢れていますが、中でも見所とされるのは。王室守護寺院のワット・プラ・スィー・サンペット、木の根に仏頭が取り込まれたワット・マハータート、巨大な涅槃仏のワット・ロカヤスタなどです。他にも見所が沢山あり、数え上げれば、きりがないほどです。
<バンパイン夏離宮>
アユタヤ遺跡群の見学の前に、順路のバンパインの夏離宮を見学しました。ここまで、バンコクのホテルを出発して1時間程の行程でした。
アユタヤから南に約20km、チャオプラヤ川の中洲に立つバンパイン宮殿(バンパイン夏離宮)は、1632年にアユタヤ朝の第26代プラサート・トーン王によって建造されました。
以来、歴代王の夏の離宮として使用されましたが、1767年のアユタヤ王朝崩壊後は、約80年間も放置されていました。19世紀になってラーマ四世からラーマ五世の時代にかけて再建されて、昔の姿を取り戻しています。
現在でもここは王室の所有ですが、王室関係者は外国高官の公式訪問などの特別な時しか使用しないため、一般に公開されています。入場に際しては王宮と同様の服装チェックがあります。
離宮全体のイメージは、西洋式の庭園を強くイメージさせます。ラーマ五世が、繰り返しヨーロッパを歴訪された影響とガイドさんが説明していました。その敷地内にある建物は、西洋の建築様式のほか、中国風の建物やタイの伝統様式の建築物が、広い敷地に散在しています。
印象深かった建物の中でも三つに絞るとしたら、アイサワン・ティッパートの名前の、ラーマ五世の像が安置されているタイ様式の建物、これは水上パレスの別称もあります。明天殿と呼ばれている中国様式の建物と、ポルトガル様式の展望台を挙げることができます。
もう少し補足しますと、中国様式の建物は、ウェーハート・チャムルーンと呼ばれ、宮廷の臣下の居室として使用されました。また、ポルトガル様式の展望台はラーマ四世が天体観測をしたとも伝えられています。現地ガイドさんの発音では、展望台ではなく、天文台に聞こえました。ホ・ウィトゥン・タサナーの名前があります。
<日本人村跡>
アユタヤの日本人村のことを説明するには、時代が遙か遡ります。西暦1350〜1767年の417年間アユタヤがタイの首都でした。16世紀当時の日本では、外国貿易に従事する許可証(御朱印状)を発行して、貿易を奨励していましたが、御朱印状を持たない交易船も多くありました。
御朱印状を持たない貿易船で、タイの首都アユタヤに来た者も多く、その人達はタイ国王から居留地を与えられていました。その場所が、山田長政アユタヤ日本人村として今は観光地となっています。当時は、数千人の日本人が住んでいたとされます。その日本人町の首領が山田長政でした。
山田長政の日本時代について、もう少し紹介しておきます。江戸時代の初め、長政は家業の紺屋を継がず、沼津藩主の籠かきをし、兵法を学ぶ無頼漢でした。23歳の時、地元の豪商の船に便乗して台湾に密航し、更にアユタヤに渡ったとされます。
山田長政は、異国の風習に悩みながらも、多くの武功と知略によって、地位を築きました。南タイ、ナコン・シータマラートに反乱が起きた際、都を離れ、反乱軍を平定し、同地の武官の最高位の官職、大守にまでなったとされます。最期は、王宮内の権力闘争の犠牲となって、41歳で客死するという、波乱万丈の生涯を送ったようです。
1935年、バンコクに設立された泰日協会が、オランダ東インド会社の文献に基づき旧日本人町跡を発見してから、タイ国日本人会の協力で遺跡として保存されています。記念館兼お土産店は、日本人スタッフで運営されていました。
そのうちの一人の方と話が弾んでお聞きしたことを少し記しておきます。タイに赴任されて、10年以上が経ったとされる名古屋出身の方でした。『水上マーケットの品のうち、編み物や木製品は手で触れるのも避けたがいいです。消毒がしてありませんから、ダニなどが潜んでいて、持ち帰った後で、大変な目に会うことがあります』と言ったアドバイスでした。お値打ちな上に、きちんと消毒が施され、蝋燭立ての大部分もプラスチックではなく、木で作ってありましたら、色々と品定めをして、お土産を買い求めました。
<アユタヤ涅槃仏>
私一人のアユタヤ観光でしたから、自由にスケジュールの変更も出きました。それで、ガイドさんが予定していた見学地の順番を変えてもらった、行き先そのものも追加、変更をしてもらいました。その内の見学地の一つがワット・ロカヤスタの涅槃仏の積もりでしたが、ガイドブックや、インターネットで検索したワット・ロカヤスタの涅槃仏とは少し違っていました。それで、この項目のタイトルも、アユタヤの涅槃仏としました。
このお寺もビルマ軍によって破壊されたとされます。しかし、理由は分かりませんが、仏像は棄損されてなく、無事なお姿でした。建物自体が無残に壊されていたのに対し、不思議な光景でした。この後も、首を切られた仏像を沢山見ましたから、ことさらでした。少し細面の、素晴らしいお姿の仏像に手を合わせました。
<ワット・マハータート>
アユタヤ遺跡の写真の中でも、特に有名な光景が切り落とされた仏頭の周りを木の根が囲っている写真です。その仏頭が見学できるのが、ワット・マハータートです。
最初にワット・マハータートについて、ガイドブックを参照しながら説明をしておきます。建立者には諸説があるようです。13世紀頃の建立のようです。しかし、王室守護寺院のワット・プラ・スィー・サンペットに隣接する場所にありますから、有力な立場であった人が、建立に関係したのは間違い無いことでしょう。
やはりビルマ軍によって激しく破壊され、頭を刈り取られた仏像がずらりと並んでいます。木の根で覆われた仏頭も、刈り取られ、打ち捨てられたものの1つだったかもしれません。1956年に発見された宝物や仏像は、チャオ・サン・プラヤー国立博物館に収蔵されていますが、今回は見学しませんでした。
話しは元に戻って、根に覆われた仏頭ですが、並んで一緒に写真を撮る時には、必ずしゃがんで、見下ろすような姿勢をとらないよう、予め注意されました。柵で囲われ、飾りが一杯の頭だけの仏様は、今は手厚くもてなされ、参拝されています。この写真を撮る時も、しゃがみました。決して、見下ろすような撮影にならないように注意しました。
<ワット・プラ・スィー・サンペット>
15世紀末期の1491年に建立された王室守護寺院です。バンコクのワット・プラケオに匹敵する重要なお寺とされます。1500年には、ラーマティボディ2世が、高さ16m、総重量117kgの黄金で覆われた仏像を建造するなど、栄華を極めたとされます。
しかし、この寺院もビルマ軍の攻撃を受けて、破壊されてしまいました。中心部には、セイロン様式の3基の仏塔(チェディ)がありますが、それぞれ、歴代王を祀ってあります。周辺の仏塔が大きな破壊の跡があるのに対し、この3基は、漆喰も残って良く保存されています。王室の権威にかけて、再建されたものかも知れません。しかし、新しく修復した箇所が見当たりませんから、何かの理由で、もともと被害が少なかったのかも知れません。
ところで、この小冊子をまとめている最中に、NHKテレビの世界遺産の特集番組で、アユタヤ遺跡のことが放映されていました。その盛衰を説明する場面で、次のことが語られていました。記憶を辿って要旨を記しておきます。
『アユタヤの草創期は、王は民衆と同じレベルで仏陀を崇めていました。それで、一致団結して外敵と戦うことができました。しかし後世になると、王は民衆から離れ、自分を仏陀と同じレベルに置き、信仰の対象として、権威を高めようとしました。しかし、その結果は逆でした。民衆の心が王から離れ、一致団結して外敵と戦うことも出来なくなって、ついには滅ぼされてしまいました』
と言った解説でした。ワット・プラ・スィー・サンペットは、一般には王室守護寺院と称されていますが、別の説もあります。例えば、インターネット情報の一つには、『実際は寺院ではない。名称は御吉祥活仏寺院と呼ぶ程度』との書き込みもありました。
伝説によれば、ワット・プラ・スィー・サンペットは、アユタヤ王朝の創設者のラーマティボーディ1世(即位・1351〜69年)によって宮殿が建てられたのを起源とされます。後のトライローカナート(即位・1448〜88年)の時代になると宮殿が移築され、この地は王専用の仏教儀式の場となり、更に時代が下って、ラーマティボーディ二世(即位・1491〜1529年)の時代に現存する仏塔のうち東側の二つが建てられ、この後、ラーマティボーディ二世が崩御すると、三つ目の仏塔が建てられました。
ここに納骨されているのはアユタヤ王朝の歴代王のうちの3人の王です。アユタヤ王朝が崩壊する原因を秘めた仏塔に感慨が沸きました。仏塔自体の目的が、次第と変化をしていったようです。
<象さんに乗ってトレッキング>
ツアーのオプションに象さんトレッキングが入っていました。ガイドさんは『食事のすぐ後ですと、揺れて気分が悪くなることがありますから、最後にします』と言って、時間を調整してくれました。
大きな象さんに乗るには、階段を登って台の上からになります。他に待っている人はいませんでしたから、すぐに乗ることができました。若い象使いの人は、片言の日本語が話せる人でした。それで、この象さんが19歳、前を歩いている一回り大きな象さんが、29歳であることも教えて貰いました。
象さんの上には、縁が付いた乗り籠がセットされ、この上に座ることになっています。足は象さんの首の後ろ辺りに乗せるように教えて貰いました。靴は履いたままですから、少し象さんには申し訳ない気がしますが、分厚い皮膚ですから、何の問題も無いのでしょう。
象さんの上から眺める景色は、2階建てのバスに乗ったような気分です。ゆっくりと歩みを進めますが、籠の上はかなり揺れます。ガイドさんの象酔い(?)のアドバイスが良く理解できました。時間をかけての遺跡めぐりのトレッキングもあるようですが、ツアーに組み込まれていたのは、途中で同じ道を引き返してくる、ショートカットコースでした。
気性が荒いとされるアフリカ象と比べると、実におとなしいアジア象の印象でした。小象さんと遊んだり、若い象さんにミルクを上げるイベントもあるようでした。初めての乗象(?)体験でしたが、大いに楽しむことができました。
ちなみにアフリカ象は、雄、雌とも、大きさは違うものの牙を持っていますが、アジア象は雄だけが牙を持っています。また、大きさも違い、アフリカ象は体長6〜7.5mであるのに対し、アジア象は若干小さく、体長5.5〜6.4mとされます。耳の大きさなども違います。もちろん、アフリカ象の方が、ジャンボ団扇のような、大きな耳を持っています。
<少し早い夕食>
アユタヤからの戻りも、高速道路の交通渋滞は無く、1時間程で、夕方の5時過ぎにはバンコク市内に到着しました。早く着いたのは、いいのですが、この後の予定は夕食だけでしたから、まだ開いていなかったレストランで、日が落ちない内からの夕食となりました。
食事の内容は、写真編に紹介しておきましたから、そちらをご覧ください。この日の夕食の楽しみは、トムヤンクンでした。世界の3大スープとも称されている、辛くて酸っぱい味が、病みつきになるスープです。そのほかにも3種類の料理と白ご飯が出されましたが、とても一人で食べきれる量ではありませんでした。
トムヤンクンは、新鮮な蝦がたっぷりと入って、期待通りでした。メニューにワインがありましたので、白のハウスワインをグラスで注文しました。2階の部屋を一人で貸し切っての食事でした。ワインと一緒にゆっくりとタイの料理を楽しみました。つい、もう一杯、ワインを追加しました。
その他の料理は、牛肉とピーマンの炒め物や、海産物の炒め物などでした。こちらも中々の味でしたが、何しろ量が多すぎましたから、半分以上が残ってしまいました。トムヤンクンだけは残さずに頂きましたが、少し申し訳ない気持ちで箸を擱きました。
<ナイトバザールへ>
夕食の後は、ホテルまで戻るスケジュールでしたが、行き先の変更をお願いして、ナイトバザールまで車で送って貰いました。明日は1日中、自由行動ですから、ガイドさんとはこれで最後となります。別れ際に少し多めのチップを渡しておきました。地下鉄とBTSを使って帰る予定であることをガイドさんに告げて、お別れしました。
ナイトバザールに到着したのは6時過ぎでしたから、まだ閑散としていました。今日の買い物予定はお香でした。白檀、英名はサンダルウッドです。何軒かお香を扱っているお店がありましたが、その1軒で大袋に入った三角錐の白檀を100バーツで買い求めました。日本で買えば1万円くらいはする量でした。それが日本円では350円ほどでした。
このお香は、香りが強いために、帰国の時のセントレア空港の税関で、品名と買った目的を、軽く尋ねられました。それで、お香の白檀であることと、値段のことを話しましたら、簡単に納得して頂きました。若い男性の職員の方でした。
このナイトバザールでは、反省事項があります。ポケットにデジカメを入れて写真を撮っていたのですが、人ごみの中で盗難にあったことです。少しばかり油断をしていました。幸いメモリーに入った写真が少ない内でしたから、大部分は、予備のカメラで撮り直すことが出来ました。ナイトバザールは盗難事故が多い場所と、ガイドブックでも注意されていますから、くれぐれもご注意を。
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象トレッキング
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